子どもが自己主張しなくなる原因として

練習させていらっしゃいました。

見せなさいと、いやがる腕を掴んで見てみると、見たことのない怪獣のオモチャを、力いっぱい握っている。四歳児の手でやっと握れるほどの大きさの、ゴムだかプラスティックだかのオモチャです。
一瞬たじろいだ感じなのでしたが、じっと、
どうしたのよ、まっすぐ立って、貰ったもン!
ほんとうに?
これ
と、思わず問いただすと、あまりにもはっきりひとことと、親を見上げて、胸をはっていい切るのでした。

そうだよ。貰ったもまたウソなんだわ、と思うと、親の方が胸がドキドキして、二の句がつげない。
だれに?
学習で埋めていかないともったいない

子どもなどいるはずがありません。

とやっと次の質問をすると、子どもは待ってましたとばかりに、
ショウちゃんのおばちゃんだよ!
その反射的ないい張り方に、親は目のくらみそうな絶望を感じる。ここまで大胆にいい切って、この子はそれをやましいと思わなくなってしまっているのか。ウソにきまっているのに。

じゃあ、ショウちゃんのおばちゃんに、聞いてみてもいいの?
考えるより先に、追いつめのことばが出ます。自分の思わずいったことばで、かえって自身が鼓舞されて、このウソをあばきつくさずにおくものか、と、こちらが身構えてしまうのです。
白状させようと力むとかえって子のウソはうまくなる
母親の思いつく図式は、あくまでも過ちを糾弾し、ウソをついていたのなら、それはウソだったと本人に告白させて、事実を述べさせる。そして、今後ウソは絶対につかないと、しっかり誓わせること。とにかく、ウソをつかない子に育てなければ、と、やたらそう力んでしまっているのですね。だから、まずなんとしても、ウソはウソと白状させねばならないわけです。
だから、強迫的に、子どもの目を見つめて、問い詰めることになります。

おばちゃんに、聞いてみてもいいのね?

 

子どもの前ではとらないほうがいいですね。

いいのね?

いいよ。聞いてみたらいいよ。アゲルカラネって、ぼく貰ったんだも
そんなこといって、ウソだったらどうするの。おばちゃんが、違うっていったらどうするのねえ、お願い。
ほんとのことをいって。
黙って持って帰ってきたのでしょ?
もしも、実際にショウちゃんちに尋ねに行って、やっぱりヨウタのいったことがウソだということになると、大人同士が気まず過ぎるのです。先日も、ゴミの捨て方のことで、遠廻しの皮肉をいわれ、もうあの人とはつきあいたくないと思ってしまった矢先のことなのだから。

だってねえ、母さん!

ええ3だってねえ、ねえ、母さん。今行っても、おばちゃんいないよ

ええ3ショウちゃん連れて、お買い物行ってるよ
勉強机の棚
母さんは気にしていました。

教育に活用しないのは神意にそむくことになる。

「ヨウタ、そんなこといって。聞きに行かれたら困るから、ばれるのよ。ダメッ。聞きに行くツ」
そんなウソいってるんでしょ。
ウソはでも、いないからね。ね。いいよ、行っても帰ってこないんだって、ね、おばちゃん
なんだか、親は、わけがわからなくなってしまいます。
「ヨウタ、いったいどういう気なの。ウソばっかりいってたら、どうしようもない悪いオトナになってしまうのよ。
聞きに行かれたら困るから、おばちゃんいないって、ウソをつくのねいいから。怒らないからほんとのこと、いって。お願い貰ったのじゃないのでしょうウタ。その怪獣、黙って持って帰ってきてしまったのでしょ?」
ね。
だって、いったよ
どういったの?あげるって
だれが?

父親の語る

ショウちゃん

ショウちゃんから貰ったの?うん

おばちゃんから、貰ったのじゃないの?うん

だって、さっきおばちゃんがあげるっていったって、いったじゃないの
黙って持って帰ってきたンじゃないもの。ウソじゃないも
だからいったいどっちなのよ。おばちゃんの知らないことなの?ショウちゃんがいやだっていうのに、無理矢理とって来たンでしょ。
そうじゃないの?

ショウちゃん、いらないって、いってたも
もうお。おまえのいってること、ウソばっかり。行こう。ちゃんと聞きに行こう。
いってても、ちゃんと、分かるんだから。もし、ウソだったら、どうするのおまえがウソヨウタを引っ立てて、お母さんは家を出ていったのです。
母さんとぼそぼそ話しだす。

子供の泣き声が聞こえているく


戸口を出たところで、ヨウタは掴まれている腕から母親の手を取り払おう、もぎとろうともがきながら、それでも、なんといっても、大人の力に幼児は抗しきれなくて、変らずもがきながら、はっきりとぼくが買ったンだよ。
怪獣。
買ったンだよ

へなへなとへたり込んでしまいそうになりました。
とそうわめくようにいったので、お母さんは、なにがなにやらさっぱり分かりません。

買った?お金はどうしたの?

大学院在学中から慶應女子高の教師になり実際

子どもたちの症状を比べてみる

つまり、人間の社会性が、そんな形で進展していく一般にどうも、大正年間だか昭和のはじめだかに生まれたひとは、全体主義下のわが国で、思春期の情緒形成をはかったために、当為、つまり、なにはどうすべき、これはこうすべきという行動の規範に従って、奉仕精神を発揮することが、国民の美徳だと教えられて育ったのですね。ひととの感情の通いあいということを、一向に大切だとはしない風が見られるのですね。
のの男女がほんの控え目にでも好意を示しあうことまで、非国民だとか、育った世代なのですね。国のための奉仕第一で、感情排他の、修養主義。
不良だとかと罵られて
M青年の両親が、道などで知る限り、地域社会への奉仕精神の強い人だったとかという、それを痛感します。大学院在学中から慶應女子高の教師になり実際世間の風評を、マスコミ報社会の規範に、自らがはずれていないことで、それでよしとしていた。子どもの心の動きをとらえ、互いの感情を、生き生きと味わうことこそが、親としての生きているしるしだと、親自身悟らないまま、親は、世の中の規範に従って生きてきた。
子どもの心は、だれにも伝わることがなく、だれかに自分の心が、今伝わっている!
る歓喜の瞬間を味わうことなく、ただそれでも、ものに恵まれていたから、食べて寝て、えることの繰り返しは、続いてきたと直観すあすを迎M青年の場合、他人とかかわりあうことは、どうせ気まずいこじれをもたらすので、ひとりで、他人との交歓を味わおう、と願ったあまりのひずみの結果がああいう、ひとびとの常識をはるかに超えた、異常な成り行きに発展してしまったのだと思われるのです問題のないように見える、ごく普通の親と子の間にでも、子どもに親の心の躍動が伝わらず、に子の心の躍動も伝わらない、ということが、こうしてあり得るのですね。

  • 子どもに考える力を与えなければならないのです
  • 勉強の方もおもしろくなってくるんです。
  • 母さんのほめ言葉が何よりの活性剤なのです。

父親の百分率は下の表のとおりです。


心にことばが伝わりあうならば
ごくなにげなく、幼児に大人が接しているのを見るとき、幼児が、すごくいらだち抜いているのに、それは、子の意図が大人に通じていないためだと気づかない。さらに、気持が通じていないとこそが子どもにとって問題なのだとは、当の大人達が気づこうともしていない。そういう子どもの思いを、ほんとに気づいてやらないのですね。
たとえば、電車が行楽帰りの家族連れの客で、ごった返していますタケシが、もう降りようよ!
子どもをもっと認めてほめよう
とさっきから、すごいごね方ですすると父親は、
今降りられるかい。ドアが開かんわいしなどと、からかっています。
と繰り返す。
意図を汲もうとしてくれないので、もっといらだってだからもう。
降りようよウ

お母さんが、ここで降りたら、家へ帰れないよと、道理を分からせようとしますでも、そのことばつきが、子どもの気持を汲んだものではないので、子はそんな道理を分かろう母親に、気持の反発を向けるばかり。
などとはしないで、走ります。
なにも考えないで反発のための反発を口「家へ帰らなくっていいからようすると、調子に乗って、あくまで気持をキャッチしようとは思いつかず、道理にはずれた者を道理でやり込めるのは、至って簡単とばかりに、軽口の調子で、スエー、家へ帰らなくって、どこへ帰るのよオ、タケシ」子ども向けの絵本というとまる

子どもたちが今日

なんにもそんなこと、いうとら,い「じゃどうしてそんなこというの!
rうるさーい。降りる10降りたーい」エエン。ウェーン。ウォーンやかましいわよ!パチリ。叩かれて、もっと、ウエエエ!
もう降りようよーと、タケシがいったとき、父親が、からかったりはせずに、耳元へ口を寄せるぐらいに、気持を寄せて、
オレも降りたいよ、ひどいといってやれば。
「もう降りたいぐらい!オレも。このひどさ。混み混み。おまえは背が低いから、大人ばかりに押されて、オレよりも、もっと降りたいだろうなア」
まわりが高いと、実際にそうまではいえなくとも、心で、そう思ってやっていたら。
すると、余裕のあるいとおしさが、親の心にひとりでに生じてくる。その思いは、ひとりでに、わが子の手をつないでいる右手へ。じーんと、心のサインを伝えるちょっと強めた握りしめ友動物的感覚の鋭さで、子に、親の思いって、体から体へ端的に伝わるのですね「自分のいらだたしさが、こんなに敏感に伝わっているのなら、ぼくいいよ。
なーに、分かってく
れればいいのさ」子ども向けの絵本というとまる

子ども向けの絵本というとまる

父親も、母親も、と、そんな気持を、子は、一生懸命に下から見上げて目線で知らせようとします。
それぞれに、キャッチしたわよとかすかな頷き。

それにしても、この電車、これくらい、大丈夫だよ。
大変!

母さん、眉をへしゃげて無言の情なさの表明を、子に、目線で。
ぼく六歳だぜ、もうと、返す、子どもの目線。
にじ思いの向きはことばに
すぐに話は
分からソ者同士
のいらだちあいに行きつけの理髪店は、ちょうど夏休みのはじまりで、子ども達がつめかけていました。
急いで済ませたいのにそうもならず、のです。
日を変えて来なおすにも余裕なく、私はしかたなしに待つことにした向いに坐っているのは、お母さんと、小学1年位の男の子近所から子ども達同士で来た子ども達は、じっと坐って待ってはいず、向うからこっち、あっちから裏の辻へと、走り廻っています。


大学院在学中から慶應女子高の教師になり実際 子どもの本質を理解する 子どもが自分で判断して決めなくてはならないところ