子どもが自分で判断して決めなくてはならないところ

子どもと無邪気に遊ぶという

しかたのないことを、分からないの!
と、平気で聞き流すことになるのです。

これだけいっても、
とうという、親の常套句も、るわけですね。
いったん聞き流すことに慣れてしまえば、いくらだって平気で聞き流せいや、ボクが、とむしろ、あんな風に、ママは負け戦にうめいている。ボクが反対に負けることになればあんな風に、負け戦を残念がらねばならないのだ。それは大変だ。やだよ、そんなこさあ、ママとの勝ち負けの一回一回に、負けるわけにはいかないのだ!
頑張ろう
と、心で力んでしまうでしょう。
だから、少々むずかしい表現ながら、しっかり書けば、こういうことになってしまいます。
ものをほしがって、親がいくら我慢させようと思っても我慢しようとしない子は、実は、我慢させられることは、ニンゲンとしての敗北だと思い込んでしまっている。
子どもが自分で判断して決めなくてはならないところ

指導されてい

いくら我慢しろといわれても、我慢させられまいとして、あえて我慢しないで意地を通すことの辛さというものを、逆にその辛さをこそ、懸命に耐えている。懸命に我慢しているのであるお分かりになりますか。ここのところは、一度読んでお分かりになりにくければ、どうか丹念に読み返してみてください。親の意図と全く反対の気持が、子どもの心にしっかり湧き出しているということがよくあるものなのです。
でも、これを読んでくださっているあなたは、しら、と訝っておられるかもしれませんね。
子どもって、そんなにいろいろ考えるものなのか幼児が頭で意識して考えているわけではありませんよ。無意識のうちに心にそう感じとっているわけです。頭で考えるというよりも、ちょうど犬猫と同じような、動物的感覚でとらえるといったものなのです。あえてそれをことばで表現すると、以上のような風になる、というわけです
だめと宣言してやったそのあとが大切
さて、買ってやったら、子の喜びを、それじゃあ、共に喜ぶ。

 

育児に関心があ

もし、買ってほしいといっても、買ってやらない方がいいと思うとき、どうするかしっかり、す。子どもの残念さを、しっかり共に味わってやり、するということが、大事なのです。
だめ、買ってもらえない子どもの残念さを分かってるのだナ買わないと断言し通して、共有するので
母さん、と、子が納得
買ってくれないの?
よ。それでもいいの?
友達みんな、持ってるんだよ。
ボクだけなかったら、友達になれないんだ「友達!みんな!買ってもらってるのーそうなのーじゃあ、大変だなア。だのに、それはうちは買わないんだから。そのことで話が持ち切りになっている間じゅう、おまえが大変だよねぇ。
うちは、買わないのよ」

そんなこというのは、親が子をいじめてるのじゃないか、ねえ!
「うん。いじめられてると、おまえ、思っちゃうのだろうね。ほしいときは、ほしい。夢中だものねえ。だのに、私は親として、おまえをいじめているわけじゃないのよ。おまえだって、分かることなのよねえ、やがては、ねえ。ほしいものは、次々、いっぱい。それをぜーんぶ買うわけにはいかない。おカネって、限りがある。どこのおうちも、そのつかい方を、それぞれの都合でみんな、親がきめる。それがほしいのね。ほしい気持をどう耐えるか。辛い工夫だね。うちは、それを、おまえに買っては、やらない」
母性から出た自然の言葉
母さんは私がこういう話をするといつ

勉強することの意義

堂々と、買わないものは買わないと宣言して、同時に、買ってもらえないで残念な子どもの気持を、しっかり分かっているよ、と、これもまた、堂々と表現してやる。

残念なのが分かる。
だのに、買わないこのだのにが、大事な接続詞です。ここを、もしも、だけど、いくらでもそんなもの買ってたら、きりがないでしょ。
といってやるのですね。

残念なのは分かるわよ。
ね、それ、分からないの?
というように、
だけどでつないで、あとは、分かりなさい分かってほしい
分からないのと、子への命令や、嘆願や、愚痴になるから、子に、いくら分かる分かるといってもちっとも分かってなんかないじゃないか、と思わせてしまうのです。

高校で行ったらどうなってい

ほんとのところは、みんな買ってるといっても、そのみんなは、せいぜいのところがシンちゃんとコウジくんと、ヨッちゃん程度であって、キヨシくんや、モンちゃんや、買ってない子も、しっかりたくさんいたりするのですね。だから、我慢する腹がまえさえしっかりできてしまえば、どうということもない。
でも、それを、親の方が攻める材料にして
みんな、みんなって、キヨシくんやモンちゃん、買ってないじゃないの!
なんて、気楽に冷たく、これみよがしにいったりすることは、それもやっぱり、親子で勝ち負け意地の張りあいになってしまうのですね。
大学院在学中から慶應女子高の教師になり実際

子どもと歩いているとき


「みんな!そう!じゃ、残念ね!うちは買わない!残念なおまえの気持、分かる」
と、しみじみ、心の深いところから、いってやれるならば、むしろ、子どもの方からでも、キヨシやモンちゃん、買ってないんだから、ななんて、自然に呟いたりして。
大事なものなら、買って、一緒に喜んでくれる。大事なものでなきゃ、だめ、といって、の、そこを、こちらの無念も通じている。
うちの母さん、しっかり、はっきり、している。
ボクのこと、分かっている。
っちかそういう安心が、子どもの我慢
を育てる。
心の土台が培われるのですよ。
疑わしい、確かめたい
ウソばかりつくので、なにもかも心配
うちのヨウタは、このごろ口から出まかせのウソばかりつく。
見えすいたウソを平気でつくので、とっちめようとすると、もっとひどいウソをついてごまかして、その場を逃れようとする。
こんなことを放っておいていいのだろうか。
ヨウタのお母さんは、気になってたまりません。
きのうも、親の姿を見た途端に右手を後ろに廻すので、なによ。

母さん方の多くはそうは考えていないようです。

勉強ができずにノイローゼ

つまり、自分は、対人関係が全くうまくいかない。だれとのかかわりも長続きしなかった。どこでの関係も、結局は壊れてしまった。でも、最後の頼みは、子どもとのかかわりであると思う、というのです。
大人とはうまくいかなくても、せめて子どもとはうまくいくだろうと思うので、の上の子どもを、どうか私に育てさせて下さい、と。
かわいそうな身
ほんとに、辛いことながら、これではやはりお断りするしかありませんでした子どもを育てるということは、育てる人の、人間関係のあり方を、知らず知らずのうちに、子どもに覚えさせることでもあるのですから、大人同士がうまくいかないようでは、子育てもなかな厳しいいい方をすれば、大人同士の人間関係は、まあだいたいうまくいくようになった。
子どもに選ばせます。

才能やひらめき

つまり、自分は、まあやっと、大人になった。だから、さあ、最後の、一番大切な人間関係といってもいい、子どもとの切実な関係を、今や自らひっかぶってみようかと。つまり子をひとり育ててみるか、と。
これこそ大人のしごとだという覚悟がやっぱり、子育てにはいるのですね。
間違いをおそれない子に育てるには
ところで、ちょっとした間違いをしたら、もうそれでおしまい、とあきらめる子どもが、この頃たくさんいますねえ。
それはつまり、間違いを犯さずにやれてきた子ども達だからです。
幼児期から、つまずかず、中学一、二年までは、あまり間違いを犯さずにやろうと思えばやれるのですね咎められず、すんなり育っていくというのは、親にとってもほんとにありがたいことですから、ああこれでよし、無事無難はありがたい、であとあとが、往々にして、大変なのですよと喜んでおれるわけで、でも、それはそれ間違いをおそれるというのは、今の時代はものが豊かになって、みんな学用品なんかも、一律に同じものを揃えるようになった。

 

先生は帽子の中を調べていた。

自分はたまたま家にこんなものがあったから、ちょっとみんなと違うが、これで済まそう、という風な、少々違ったもので間に合わすなんてことがなくなったので、別に気にしなくていいものまで、みんなが揃えるとなると、ほんとにみんな同じなのですね。だから、ちょっと違えば、もう致命的な間違いととらえてしまいますゲンヤくんは、ぼくもショー1、行くといった。書道のことです。
町角に、元学校の先生だった書道教授の看板があがっています。近所の幼い子ども達が、書道はお行儀の練習にもなるというので、親も喜んで行かせている。
写真館を渋谷で撮影しようと考えている
子供は親の後ろ姿を見ながら育つ

子どもは?

それのことなのでした行かせるにしても、まだ学校に行かない子に、学校の文房具の書道用品一式を買ってやることもなかろうと、お母さんは工夫して、家にあった硯や筆を揃え、丈夫な空き箱に、模様のきれいな紙を貼ってやり、布を底に敷いて、手頃な用具ができ上りましたすずりお母さんの手作りの書道用具を見て、書道の老女先生は「わー、いい工夫ね。ゲンちゃんだけの、世界にたったひとつの硯箱だから、大切にするのよ」
と、とてもほめてくれたので、ゲンヤくんも嬉しくて大満足だったというのです。
やがて、学校でも書道を習う年になりました。ゲンヤくんは文句なしにぼくは道具がちゃんとあるよ。あれ、持っていくよと主張して、幼いときから使っている自分ひとりの大切な硯箱をカバンに入れて元気よく出て行きました。

子供はあり余るほどの物質に囲まれて暮しています。

はじめての書道の時間、自分の机の上だけが、様子が違いますだって、みんなは、学校で一斉購入の硯や下敷きで、ゲンヤくんのような、家にあるもので揃えたというのは、ゲンヤくんただひとりだったのですからねはじめてみんな硯で墨をする。
新鮮な空気が教室に満ちています墨をすりながら、ゲンヤくんは、先生、ぼくの道具を見てどういうかな?とわくわくしていたのですね。幼い日、書道教授の老女先生は、いい工夫ね、といってくれた。
学校の先生ならどんな風にびっくりするかなと。
子どもたちの面倒

子供たちは目でも親の姿を見ています口に出す事柄


確かに、ゲンヤくんの硯は、お父さんが、本格的な書道でつかっていた値打ちもので、見る人が見れば、子どもがこんなものを、とびっくりしていいものではあったわけです。
みんなを見て廻って、後ろから先生がコツコツと足音を立ててやってきましたゲンヤくんの机の上の様子が違うのを見て、ひとこといってくれました。肩にちょっと手を置い
て、ああ、気にしなくてもいいんだよ。
違ってても

と。
え?
と、ゲンヤくんは、息をつめました。
いたわってくれるようなこと?気にしなくていいと、元気のない様子を励まされねばならぬとなの?と思った途端に、ゲンヤくんはすっかり元気がなくなってしまったのでした。
すっかり元気をなくして帰ると、どうしたの?
「だって、気にしなくていいって、お母さんが心配します先生、書道の道具のこと、いった。
なんだか、気になっちゃった。
みんなと同じのにする」
その母親が、この話を私にしてくれたとき、こういったのです。
「先生も、口にするひとことに気をつけて下さったらいいのに。

子どもの本質を理解する

子供の心の安定につながる

そして、矢庭に、自分の隠し持っていたボールを、ポケットの中から取り出して、子どもの顔めがけて投げつける
ええい、これでもか!
その投げ方、親の顔つきを見て、子は悟るでしょう。
あ、そうか。キャッチボールではなかったのだ。つぶての投げつけあいだったのだ!と。
それからは、そのあたりの石を拾って、これでもか、投げつけあいは、キャッチボールとは違うのですねこれでもか。子供自身なのですその使命大人同士の会話など、ほとんど石のつぶての投げつけあい。
教員同士の組織の対立など、盾と矛を持って、ほんとに互いに、やっつけあい。
それは、ひとつのボールを、ちゃんと受けて、ちゃんと相手に返すキャッチボールなのではない。
ことばが子どもに届くとき、子どもの目が光ります。
光っている目を見て、今光っているね、と、確認をさらに、こちらが重ねますそれで、子どもは故知らず、自信を持つのですね。自分はひとと共に生きているのだ、ということに。すると、不断に、今度は、ひとの目が光る瞬間を、いくたびも重ねて味わいたいものだと……。そんなあこがれを、幼い胸に秘めて育っていくでしょう。
人間の思いの向きは、たくまずして、ことばに滲みでます。
それを、どこまで正確に、素直にしっかりと、そして豊かに読みとることができるか。

  • 子どもが言うことをきかない
  • 子どものの芽をつみとってしまわないように心
  • 教育もいい。

中学生程度

世の中がギスギスするのも、なごやかになるのも、そして、人間関係が、後ろ向きになるのも前向きになるのも、そこの豊かさ次第というわけで……。
なんといっても、育つ子どもは、世の光。
子育ての自信を持つために
人間関係がうまくいかなければ、子育ても難しい
育児というのこそ、ほんとにつくづく思います。習うより、慣れよですね慣れている親と、慣れていない親の違いは、大きいですね。
といっても、はじめての出産は、だれだってはじめてですね。最初から、すでに何度も出産を経験しているなどということがあるはずはありません。
習うより、慣れよ
だと、つくづく思うのは、一人目より二人目、二人目よりも三人目、子育ての経験は、重ねる方が、より自信のあるものになる、という意味ももちろんありますが、それよりも、自分が、いろいろな機会を通して、自分自身の出産と哺育の実際の体験だけでなく、世間のいろんなひとのいろんな子育てに、どれだけ関心を持ってきたか、ということ。
子どもの気持ちにうまく自分を寄り添わせます。
それらが随分と育児の自信の持ち方に、違いをもたらすものだということです。
それから、普段から、育児について、どんなことでもフランクに話しあえる人が、てくれるということ。これも、自信につながりますねかたわらにいもちろん、たとえば、お姑さんが、それはそれは孫の育児に関心があり、なにくれとなく世話もしてくれるし、助言も惜しみなくしてくれる。ところが、それが世代の違う若い母親の考えとはとことん喰い違っているので、役に立つどころか、迷惑至極だ、ということだって、やっぱり、あるわけです。反対に、教えてもらえないと分からないことも多いし。
どちらがほんとは正しいのか、ということになると、一概に古い世代が正しいとも、正しいともいえないでしょう。子どもが自分自身のいやな面にそっくりなのを見て

子どもに聞いていく

いいところを、取っていかねば。どちらのも、ね若い世代がなににしても、どうかと思うやり方を、強制されて、すぐその通りやりなさいと、監視されるなんてことにでもなると、それがたとえ正しいやり方であったとしても、素直に指示に従えない。それをやられる子どもにとって、到底気分の快適なものであるはずはありませんから、率直にいって見解のことごとにずれる姑への対策についてこそ、フランクに話せるひとを、だれかひとり見つけておくことも大事ですね。
小さな相談室を、自営して、二十年近くになります。子どもが自分自身のいやな面にそっくりなのを見て

子どもが自分自身のいやな面にそっくりなのを見て

それまでにも、結局、私はずっと相談といわれるしごとにかかわってきましたが、合わせて三十年以上の相談のしごとのなかで、一般的に育児という点について、つくづく大変だなァ、と思うのは、愉しくリラックスして、自分の育児の現実を包み隠す必要もなく、互いに話しあえる相手を持たない母親のことですね育児の自信を持つには、だからまず、れば、ということになりますね母親自身が、ひとと触れあうことを愉しいと思うのでなけまことに辛い話になりますが、私が、里親をふやすための民間活動の団体社団法人·家庭養護促進協会にいたとき、子どもを引き取って里親として子どもを育ててみたいという多くの志望のひと達のなかに、次のような方もいたのです。


子供自身なのですその使命 子どもに選ばせます。 子どもに選ばせます。

子供自身なのですその使命

先生たちが工作の好き

向いの子は、バスにでも乗ってお母さんに連れられて来たのでしょう。何人もの順番をおとなしく、母親の隣に、ちょんと坐って待っています。
おとなしく待っている。それもそのはずです。その子は、なにかを夢中に読んでいました。
でいるものがおもしろくて、待っている時間の長さを気にはしていなかったのでしょう。
読んところが、いわずとも良いのに、お母さんが、耳元で、シゲト。もうすぐよ。あのおじちゃんの次。あと、もう三分
それを聞いて、子どもは、読み物の世界から、現実の理髪店へ、意識が戻って来ました。
もうすぐの声で、ほーっと息を吐き、本をたたんで、横へ片付けてしまいましたから、その三分を、あとはひたすら待つばかり。母性から出た自然の言葉あいにく生憎、ちょうど私の頭の上、子どもの向いに、時計がチクタクと変らぬ音をたてていました。三分が過ぎました。でも向うのおじちゃんは、店主に髪を梳いてもらいながら、のんびりと会話を続け、店主はまたまたハサミをもって、手直しをしたり。それから洗髪、そのあとでひげ剃りという手順でしたから、もはやお母さんのいう三分はとっくに過ぎたのに、一向にその子の順番が来そうにありません。
す本の世界に入っている間は、現実の時間など、気にならなかったのに。
これでは良かれと思って子は親に文句をかけた母親のことばが、小さな親切、大きなお世話だったのですね。
待ち切れず、いいはじめました母さん。三分、とっくに過ぎたよ
でもお母さんはまるで無視して、週刊誌から目を離しません。

  • 子供の記録をつけることである。
  • いじめつ子を相手にする
  • 子どもがい

しつけのため

子どもはお尻をもぞもぞ動かし母親の腕を掴んでゆすり、またいいました。

だから、ねえ。どれだけ待ったと思うの。もうしんどいよ。帰りたい!
お母さんは、活字から目を離しもせず、まるでハエでも払うように、
じっとしてなさい!じっとじゃけんと、邪慳に、「だって、さ。
掴んでゆする腕を振り払おうとしたので、じゃどうして三分っていったんだよォ。
そういう軽視のされ方に、子はねえ、どうして三分だよ。三分なんか、とっくに過ぎたよ」
と随分のいらだちですね。子のいらだちを、もう自分の力では治められないと、めているのでしょう。そっぽを向いて、顔つきはいつしか、つんと怒り母親はすでに読「いいよ。
もう帰るからな。
ねえ。
いいの?
母親を混乱におとし入れているような例もあります。
帰るよ。
帰るっていってるんだよ」
気遣い気遣いの抑えた声ながら、まわりの私などの待ち客をハスカイに眺めて、付きで、帰るからな、りました。
親には険しい目どうかしなければならなくな帰る!
と。
もう、これで、ついに母親も、
だったらね、シゲト。今から帰って……といって、このお母さんも、家でいうのとはちょっと違うのでしょうね、あたりにはばかりながら、抑えた声で、でも、この一声で、子どもを完全制覇よ、という自信から、わが子をバカにしきった調子になり
今から帰って、あしたまた、はじめから待つ気?学校で教わったこと言ってみなさい

子育ては人生

といい放ちました。どう?いい返せる?こっちの勝ちでしょう!と、いう声です。
すると、反射的に、シゲトくんは返したのです。

なんにもあしたの話してないわい。今、帰りたいというとるンじゃ!
思わぬ逆襲に、お母さんは思わず、むかっと来て、いささか次の対応には感情がこもります。

だから、いってるでしょうが。今じゃなくって、あしたのことを考えなさい、と
だから、いってるでしょうが。あしたのこというなって。今のことをいっているのに!
だって、あしたのことを考えたら……
だって、今のことをいってるのに……
期せずして、親が、
分からない子ねえ!学校で教わったこと言ってみなさい

学校で教わったこと言ってみなさい

子は、分からソ親やなアー
同時に、相手は話にならない、分からン相手だと、断を下しあったのですね。
ああいえばこういう。話の行方どこへ
互いに腹いせはつのるだけつのっています。子どもは元に戻って、やっぱりもう一度、もうオ。帰りたいよオ
すると、母親は怒った調子で帰りたけりゃ帰りなさい。あしたは自分ひとりでいらっしゃいね。ついて来てやらないから

ついて来てなんか、いりませんよーだ
は、ついてなんか来てやりませんよさ子は、しばらくひそんでから、奇襲作戦です。語調がすっかり変っています。脅しの口調で、
こんな遠いところ、ひとりで来れソじやソか。来ていいのかよ、ひとりでほらごらん、という勝ち誇り。
うしてついて来てやったものの、ひとりで来させるのは、確かに本来は禁止。だから、きょうもこどうせひとりでよう来ソくせにと高を括って、母親はいう。


母性から出た自然の言葉 子どもたちの面倒 子どもの本質を理解する