子どもたちの面倒

成績が悪くてもあせらず

たとえば、こんな風に。
しっかり幼児に分かるように示してやら
キョウイチくんって、いうのだね。キョウイチくん、か。キョウイチくん、と、このおじさんが呼んでも、それ聞くのに慣れるのって、日がかかるだろうな。ね、キョウイチくん。
この家は、はじめてだもの。知らない、はじめてのところだもの。慣れないよ、なあ。おじさんとおばさんは、ずっと住んでいるわが家だから、ここにいるのが一等安心·キョウイチが、ここにいるのが安心と思えるまでには、日がかかるなあ。キョウイチ。
なんでそんなに不安なのだろうかっていうと、不安だからなんだよ。はじめてで慣れなくて。
不安なときはねえ、不安なんだ。だって……不安だからさ。
そのリンゴとおせんべい。ちょっと落ち着かなきゃ、いくら見てても、安心した気特が、少しでも、湧かないうちは、おなかがすいても、緊張してたら、おなかがすいているのさえ、自分で気がつかない不安なときは不安だ。そのほかのなにもない不安があるとき、不安だ
そういって、ふと顔を見あわせて目があったとき、なんだか、この大人のひとは、昔から知ってとても、ほしいなんて、思うものじゃない。子供がいいことをすれば分かってる。
いたひとのような、懐かしい目の色である。子どもはこの目は平気で見ておれる。
く、自分から目をそらしてくれた!そんな配慮が、子どもには、心に触れる大人はさりげな自分だけがその居場所に安心していて、なら、こちらとの関係に、慣れない不審をあらわしているひと目の色でそうだと分かる、不安な極限にいて、全く過敏な子どもにはこちらの、こちらへの親近さが、居慣れない場所への不安を百も承知してくれていて、だのに、こちらへの目の光に文句なくあらわれている。
と思える親近さ。
そのひとには、はじめてではない、〈エ、このひとには、心が触れる!
幼児の心が、無意識のうちに、開く
親から子、子から親への一方通行になっていないか
特別な、大人と子どもの関係についての話から、この本を、私は書きはじめました。
特殊な関係だから、特殊な配慮がいる。
私はそういうことをはじめに書きたくて、そんな気持から、この本を書きはじめたわけではありません。

  • 子どもになっていました。
  • 子ども自身のことばで語るのを聞いているうち
  • 子どもを元気に健康

母親の方がさらりと素直に認めてやって

一般に、子ども、といったら、他愛のないものだと、決め込んでいる大人が多すぎるのです。だから、子どもって、こんな風に、おもちゃなんかの単純さではなくて、人間さまとして、至高の位置に、存在しているのだぞ、と、まずこの本の読み手に感じてもらいたい。
そう思った上での、こういう書き出しなのです。
というのは、普通、わが子でありながら、親の発することばが、まるで子どもの心に届いていな
いことが多い。なぜ届かないのかの吟味など、およそはじめようとはしないので、だから、親と子の心が、バラバラに、離れあったまま、日を過ごしている親子が、あまりにも多いので、それが見ていてたまらない。
両親でよく話し合って決めましょう。
だからこそ、こんな本を、書きたくなったのです。
辛い話ながら、先年に起きたあの幼児誘拐連続殺人のM青年など、なにも、特別複雑な生い立ちなどでなく、平均以上の家庭で、不自由なく暮してきた結果の異常さ、ですね。一般に、異常な事件は異常性格者が起こすものとばかり見なしてしまいがちですが、私などの体験から推察すれば単に異常というより、幼い頃から、親のことばが子どもの心に届かない習性が、親に気づかれることなく、あるいは気づいた親が、生まれつきの性格だとかとみなして、それがしっかり積み重なった結果の、特異すぎる人格形成、と想像せざるを得なぃことが多いのです親から子への、一方通行子が納得したというサインを、体には一向あらわそうとしないのに、親はそれを訝ることがない。母さんはきちん

いじめるほう

平均以上のことをしてやれているのだと、世間との比較で、ひとり勝手な優越感を抱いている。それにしても、なぜ、子は親のなすことに、気持のよい反応をあらわそうとしないのか。そのことを親は多少とも、いつだっていつだって、不満ながら、まあこの子はそういう子なのだろうとひとり決めしてしまって、久しい。
いぶかだから、いつだって親がなにかするとき、例外なしに親から子への一方通行になってしまう。
その代りに、また逆に、子から親へも一方通行なのですね。
ぶっきらぼうに、なにかがほしいとか、ここはこうしてほしいとかと、要求する。
なぜそんなものがほしいのかなどと尋ねても、それには答えず、ほしいを、繰り返す。

しょうがないなア。そんなもの、お父さんは買ってやる気はないのだがなあと、どうせ押し切ノー
をいってはやらずに、られるというこれまでの習慣から、弱り言を、親は、繰り返すいさぎよいなんだか愚痴めいた子どもは、親が、なにかをいう間、黙っていて、いい終ったら、ほしいを、繰り返す。母さんはきちん

母さんはきちん

子どもの要求には応じてやれるという経済力のゆとりが、親にとっては、世間への優越感のしるしでもあるので、子がほしい
ほしい
ほしい
を繰り返せば、結局は要求に応じる。
それだけほしいを連発して、あげくの果てに買わせたものであっても、親が不承不承応じたのであり、また、応じるものだと、先から見越していて、その通りになったものである以上、子はやったア!と飛びあがって喜ぶというように、感情を発露することもないそういった形での、子から親への一方通行。
お互いの気持が、噛みあったか噛みあわなかったかによって、喜んだり、悲しんだり、あわてたり、のんびりしたり、という感情の起状を、親子で共有する。大いに共鳴しあったり、逆に大いに反発しあったり。反発しあったあとは、どちらからともなく、反発のままでいることが耐えられずだからそのあとの共感のしあいこそ、実にいとおしさ限りなしのものであったりそういう心の交流が、相互活性化への動きが、のです子の心を安定させ、心を土台として、知が発達し、を成熟させる。


子供がいいことをすれば 母さん方の多くはそうは考えていないようです。 子どもに保障しようということでもぁるのだ